血と涙は情が流す【モブサイコ100三期】

前回やたら気取った文章を書いてましたが本も読むしアニメも見ます。全然オタク。

 

 

 

モブサイコの第三期がこの前終わった。リアタイしてよかった。リアタイは後で別ジャンル行ったらなんであそこまで本気で追いかけていたんだろうと不思議になるが、その瞬間ではその選択をするより他なくて、ひとりで30分を蒸発させる。

 

知ったきっかけは前々から知ってはいたがフリゲーだと思っており(何故)調べてみるまでもない一コンテンツであった。ところがネットサーフィンでは莫大でけばけばしい情報の押し売りに無関心になり感度は落ちる訳だが、何故だか三期の放送の公式ツイートが頭から離れない。名前はよく聞くけど結局よくわかんねぇと検索窓にタイトルを突っ込んだが早し、気づけばアニメ一期と二期を履修していた。自分でも意味わからん。

押して押して押したら梃子でも動ず、引いても関心が即座に頭からすっぽ抜けるのに今回はすっと胸に入り込んでいた。ここしばらくは寝不足気味。

 

作品が如何に凄いかとか、原作とアニメの違いだとか、その辺はもっと適任がいる筈なのでただの感想文というかはきだめだ。特段オチはない上にパッと思いついたことを乱暴に叩いているので読みにくいよ。

 

全体雑感

影山茂夫は頻繁に戦いに巻き込まれる。霊幻の使いっぱしりはともかく、不良の抗争や超能力者同士のバトルなど戦いは作品の見どころのひとつだ。その中でモブにも相手にも気づきが生まれ、赤の他人同士が縁のある他人になる。このバトル、作画がとんでもなく力が入ってるのに最初は目が行ったが、段々と不自然に感じてきた。

 

痛みでしか、分かり合えないのだろうか。

痛みが、スタートラインになっているのだろうか。

 

言葉や行動で分かり合えたシーンも多い。特に霊幻やエクボ、律や仲間の言葉にモブはいつも勇気づけられて支えになっていた。モブは正直周囲があれだけ支えてくれたのが功を奏しただろう。最上編でそれを確信した。それ込みでも、物理で語り合う場面が多く、痛みを分かつ彼らをどこか遠巻きで眺めるようになった。

 

そもそも中高生は発達上言語コミュニケーションより非言語的コミュニケーションを重視し理解しやすい傾向にあるので、喧嘩しまくり衝突しまくりなのは自分の意志を曲げないしぶつかり合って知っていく面で健全である。ただ、モブサイコ100のバトルはヤンキー物ではない。それが超能力の存在。

超能力は感情の発露。拳で、激情で、ぶつかって、傷つき血を流す。

それが単なる野蛮な喧嘩ではない、もっと肉薄した何かに感じられた。

これだけ互いに傷つかないと、これだけ自らをさらけ出し相手に理解させんとばかりにぶつけないと、相手の目から心内をのぞき込もうとしないのだろうか。

 

身体を張って訴えかけたのはそれこそ丁度最終回の霊幻と茂夫だろう。茂夫はずっと不信感から来る拗ねを抱えていた。皆が見ているのは超能力を使って助けてあげる、善良なモブ。ギバーだと信じていた彼はテイカーとみなした霊幻を振り落とす。それでも霊幻は傷つきながらも茂夫に辿り着き、訴え、許しを請う。大のおとなが子どものようにしおれて涙を堪える様は、茂夫のテイカーであり嘘つきの霊幻という像を揺さぶるのに十分だった。

自分だったら間違いなくそこまで出来ない。それだけの原動力を突き動かさせる関係であるのはよくわかるが、共感するのとそれを言動に移すのは別物であって、モブと霊幻はそれだけのリソースを投げうってきた。きっかけは些細な物でも、鎬を削る戦いが巻き起こり決断を余儀なくされる。血と涙を流した分だけ、手を差し伸べられるし背中を押してくれる人が増える。

私が甘ちゃんなのかもわからなくなってくる凄まじい熱量を持った関係性である。肉改部の連中など一部員を思ってあそこまで動くか。高嶺つぼみは幼馴染を加味してもあの被害の中で待ち続けるか。(茂夫の性格的に何等かの手を打たないことはまずないであろうことは理解しているように見えるが、それでもあの決断は簡単ではないだろう)

互いに血潮のように流れる暖かい情愛を何度も体感して、見ている方が優しくなれる気がした。時には怒ったり悲しんではぶつかるけれど、相手な何たるかは知っているしわかり合えていると信じている。それが押しつけがましいというよりすっと胸元に光が差し込むように、シンプルに、一直線に照らされる。

 

 

 

皆、全力なのだ。それが情を揺さぶる。私は見栄っ張りで中身を見透かされるのが嫌いなので心と体が違う動きをすることが多々ある。感情を爆発させるなんてまずないし、感情をかみ砕いて吟味する内に消えてしまうか、小分けにして相手が飲み込んだのを確認してから差し出すような付き合い方だ。大人ならそんなもんだが。

モブが必死に走るあの苦し気な顔、殴り蹴られで歪み吐く口。あれだけのパッションをこうもぶつけられては身体に熱湯をぶちまけられているようだ。常日頃感情を管理しているような奴にはもっと刺さる。これが全力だ。これがありのままの全てだ。直視しろと。案外汚くないだろう?と。

 

 

 

相手をまるっと飲み込む、そう信用することが和解の中で多い。相手を良いように矯正するでもなく、そのままで、それでいい。もっとありのままを教えて。そのちっぽけな勇気と優しさを決して無駄にはしない。そう仲間たちは何度もモブに語り掛ける。莫大な感情を共有する彼らが、あれだけ打ち解けられるのも自然だ。

あまりにも戦いの際の痛みが迫真すぎて(これは絵が上手い)目の前の暴力に引いてしまう身もあったが、超能力がそれを単なるグロテスクな殴り合いにしない。対話のフェーズがあり、心と体、どちらもぶつける。

それが、今では普通のことではなくなったのだろう。

私たちは随分と臆病になった。何処かの記事で日本はASD国家だと見たが、否定できなくなっている。共有されている当たり前の領土が狭い中で、理想を流し込んでいたら病気と形容されるような期待に応えてやった平均以上の人たちが判断基準に引っかかるだろう。普通じゃない人を隅に追いやることで得られるのは優越感ではなくて、安心感ではないのか。何に脅かされるというのか。モブサイコ100では甘えが通用しないのだ。通用するのは、血と涙を流してからだ。体だけではなく、心も。

あの牧歌的な理想郷も、その前に泥と血をかぶってきたからこそ、笑えるのだ。

 

 

キャラと話

最後に、好きなキャラと話。キャラは皆好意を持てる珍しい作品だった。大体自己嫌悪が逆噴射するキャラか地雷を踏み踏みするキャラがいるので、自身の醜い叫びと戦いながら挑む羽目になるが、モブサイコ100はそんなことがなかったのは驚きだ(それほどキャラの思想がある程度似通っているのだろう)。

現在地と道を見失い、抑圧された感情を置いてきぼりにするようなアンビバレントなキャラクターは実に好みなので、モブの成長にはワクワクさせられた。学校や社会という家以外の空間での立ち位置には学生は困惑させられる。ありのままではいられない、その折り合いの難しさを「公」のモブと「私」の茂夫という二面性で表現したのが理解しやすくうまいと思った。

対の主人公である霊幻も、初登場からまるで小賢しさや意地の悪さは感じられなかったし(隠し通そうとしていた柔らかい部分が露出している)空虚な心を名誉ではなく人とのつながりで一歩ずつ埋めていく様子には胸がジンとした。最終話のCM前のカット?あれの茂夫視点の霊幻は随分率直に描写されていて最後のカットがボロボロなのに対して、霊元視点の霊幻はどこまでもモブと変わらないのが彼は茂夫が思うほど線引きしてモブを捉えていないことがわかった。最後のモブがあの世界から一歩引いてはいるが嫌悪より憧憬の映るあのモブであった。大人だとより刺さるキャラだろう。彼は自分の弱さを自覚しているからこそ、モブに手を差し出せた。

 

話だと全部を通した中で最も印象深かったのがサイコヘルメット教回。周りはどんどん離れていき、弟の律や恩師の霊幻までもが訴えかける。間違っていると。受け入れろと。最初のモブなら知らないが、今の彼は前にも同じ目にあったのを学習済みだ。異邦人は何度目だ。直面させられる孤独と意志を押し付けられる不快感を画面越しでもひしと感じられる。この異物としてのここに立っていてはいけない寒気と揺らぎを、囲い込まれた鼠のような行き場のなさを、絶望感ではなくゆっくり歩みよる影のように描かれたのが一番引き込まれた。仲間が、つながりが、支えが崩れ落ちる。切り取られた自分はどうすれば良い。モブには答えも背景もわかっていた。

これを踏まえてのエクボ戦が熱い。こういう日常に忍び寄る影と目の前に気が付かなかった袋小路という展開が好き。

 

 

 

いざ言葉にすれば思いのほか血の匂いがする捉え方をしていたし、主語が急にでかくなるので思いのままに手を動かすのは気が引けるが、そうでもしないと脳裏に浮かんだ綺晶は彼方へ落っこちて二度と拾えない。頭に瞬間湧いて浮かぶ言葉を拾って打ち込んでくれる機械ができないものか。倫理上の問題で大変なことになるし、大概保守を取るので生きている限りはないと予想するが、どう転ぶかはわからない。

単なる成長物語ではありきたりだ。異能力バトルもありきたりになった。そこに当たり前や自分というあり方にメスを突き刺し、否応なしに前進を命じられたかと思えば空中分解することもある緩急。真っ暗闇に自分で引いた一本道が明るみを帯びてきて、夜明けが来る頃には線がなくたって歩む道筋も頭で描ける。見る先は遥か遠くじゃなくたって、まずは目に映る範囲を大切にしよう。夜は自分が揺らぎそうで無性に恐ろしくなるけれど、もう怖くない。不安に手を差し伸べ抱きしめてみれば、きっと自分と同じ姿をしている。