血と涙は情が流す【モブサイコ100三期】

前回やたら気取った文章を書いてましたが本も読むしアニメも見ます。全然オタク。

 

 

 

モブサイコの第三期がこの前終わった。リアタイしてよかった。リアタイは後で別ジャンル行ったらなんであそこまで本気で追いかけていたんだろうと不思議になるが、その瞬間ではその選択をするより他なくて、ひとりで30分を蒸発させる。

 

知ったきっかけは前々から知ってはいたがフリゲーだと思っており(何故)調べてみるまでもない一コンテンツであった。ところがネットサーフィンでは莫大でけばけばしい情報の押し売りに無関心になり感度は落ちる訳だが、何故だか三期の放送の公式ツイートが頭から離れない。名前はよく聞くけど結局よくわかんねぇと検索窓にタイトルを突っ込んだが早し、気づけばアニメ一期と二期を履修していた。自分でも意味わからん。

押して押して押したら梃子でも動ず、引いても関心が即座に頭からすっぽ抜けるのに今回はすっと胸に入り込んでいた。ここしばらくは寝不足気味。

 

作品が如何に凄いかとか、原作とアニメの違いだとか、その辺はもっと適任がいる筈なのでただの感想文というかはきだめだ。特段オチはない上にパッと思いついたことを乱暴に叩いているので読みにくいよ。

 

全体雑感

影山茂夫は頻繁に戦いに巻き込まれる。霊幻の使いっぱしりはともかく、不良の抗争や超能力者同士のバトルなど戦いは作品の見どころのひとつだ。その中でモブにも相手にも気づきが生まれ、赤の他人同士が縁のある他人になる。このバトル、作画がとんでもなく力が入ってるのに最初は目が行ったが、段々と不自然に感じてきた。

 

痛みでしか、分かり合えないのだろうか。

痛みが、スタートラインになっているのだろうか。

 

言葉や行動で分かり合えたシーンも多い。特に霊幻やエクボ、律や仲間の言葉にモブはいつも勇気づけられて支えになっていた。モブは正直周囲があれだけ支えてくれたのが功を奏しただろう。最上編でそれを確信した。それ込みでも、物理で語り合う場面が多く、痛みを分かつ彼らをどこか遠巻きで眺めるようになった。

 

そもそも中高生は発達上言語コミュニケーションより非言語的コミュニケーションを重視し理解しやすい傾向にあるので、喧嘩しまくり衝突しまくりなのは自分の意志を曲げないしぶつかり合って知っていく面で健全である。ただ、モブサイコ100のバトルはヤンキー物ではない。それが超能力の存在。

超能力は感情の発露。拳で、激情で、ぶつかって、傷つき血を流す。

それが単なる野蛮な喧嘩ではない、もっと肉薄した何かに感じられた。

これだけ互いに傷つかないと、これだけ自らをさらけ出し相手に理解させんとばかりにぶつけないと、相手の目から心内をのぞき込もうとしないのだろうか。

 

身体を張って訴えかけたのはそれこそ丁度最終回の霊幻と茂夫だろう。茂夫はずっと不信感から来る拗ねを抱えていた。皆が見ているのは超能力を使って助けてあげる、善良なモブ。ギバーだと信じていた彼はテイカーとみなした霊幻を振り落とす。それでも霊幻は傷つきながらも茂夫に辿り着き、訴え、許しを請う。大のおとなが子どものようにしおれて涙を堪える様は、茂夫のテイカーであり嘘つきの霊幻という像を揺さぶるのに十分だった。

自分だったら間違いなくそこまで出来ない。それだけの原動力を突き動かさせる関係であるのはよくわかるが、共感するのとそれを言動に移すのは別物であって、モブと霊幻はそれだけのリソースを投げうってきた。きっかけは些細な物でも、鎬を削る戦いが巻き起こり決断を余儀なくされる。血と涙を流した分だけ、手を差し伸べられるし背中を押してくれる人が増える。

私が甘ちゃんなのかもわからなくなってくる凄まじい熱量を持った関係性である。肉改部の連中など一部員を思ってあそこまで動くか。高嶺つぼみは幼馴染を加味してもあの被害の中で待ち続けるか。(茂夫の性格的に何等かの手を打たないことはまずないであろうことは理解しているように見えるが、それでもあの決断は簡単ではないだろう)

互いに血潮のように流れる暖かい情愛を何度も体感して、見ている方が優しくなれる気がした。時には怒ったり悲しんではぶつかるけれど、相手な何たるかは知っているしわかり合えていると信じている。それが押しつけがましいというよりすっと胸元に光が差し込むように、シンプルに、一直線に照らされる。

 

 

 

皆、全力なのだ。それが情を揺さぶる。私は見栄っ張りで中身を見透かされるのが嫌いなので心と体が違う動きをすることが多々ある。感情を爆発させるなんてまずないし、感情をかみ砕いて吟味する内に消えてしまうか、小分けにして相手が飲み込んだのを確認してから差し出すような付き合い方だ。大人ならそんなもんだが。

モブが必死に走るあの苦し気な顔、殴り蹴られで歪み吐く口。あれだけのパッションをこうもぶつけられては身体に熱湯をぶちまけられているようだ。常日頃感情を管理しているような奴にはもっと刺さる。これが全力だ。これがありのままの全てだ。直視しろと。案外汚くないだろう?と。

 

 

 

相手をまるっと飲み込む、そう信用することが和解の中で多い。相手を良いように矯正するでもなく、そのままで、それでいい。もっとありのままを教えて。そのちっぽけな勇気と優しさを決して無駄にはしない。そう仲間たちは何度もモブに語り掛ける。莫大な感情を共有する彼らが、あれだけ打ち解けられるのも自然だ。

あまりにも戦いの際の痛みが迫真すぎて(これは絵が上手い)目の前の暴力に引いてしまう身もあったが、超能力がそれを単なるグロテスクな殴り合いにしない。対話のフェーズがあり、心と体、どちらもぶつける。

それが、今では普通のことではなくなったのだろう。

私たちは随分と臆病になった。何処かの記事で日本はASD国家だと見たが、否定できなくなっている。共有されている当たり前の領土が狭い中で、理想を流し込んでいたら病気と形容されるような期待に応えてやった平均以上の人たちが判断基準に引っかかるだろう。普通じゃない人を隅に追いやることで得られるのは優越感ではなくて、安心感ではないのか。何に脅かされるというのか。モブサイコ100では甘えが通用しないのだ。通用するのは、血と涙を流してからだ。体だけではなく、心も。

あの牧歌的な理想郷も、その前に泥と血をかぶってきたからこそ、笑えるのだ。

 

 

キャラと話

最後に、好きなキャラと話。キャラは皆好意を持てる珍しい作品だった。大体自己嫌悪が逆噴射するキャラか地雷を踏み踏みするキャラがいるので、自身の醜い叫びと戦いながら挑む羽目になるが、モブサイコ100はそんなことがなかったのは驚きだ(それほどキャラの思想がある程度似通っているのだろう)。

現在地と道を見失い、抑圧された感情を置いてきぼりにするようなアンビバレントなキャラクターは実に好みなので、モブの成長にはワクワクさせられた。学校や社会という家以外の空間での立ち位置には学生は困惑させられる。ありのままではいられない、その折り合いの難しさを「公」のモブと「私」の茂夫という二面性で表現したのが理解しやすくうまいと思った。

対の主人公である霊幻も、初登場からまるで小賢しさや意地の悪さは感じられなかったし(隠し通そうとしていた柔らかい部分が露出している)空虚な心を名誉ではなく人とのつながりで一歩ずつ埋めていく様子には胸がジンとした。最終話のCM前のカット?あれの茂夫視点の霊幻は随分率直に描写されていて最後のカットがボロボロなのに対して、霊元視点の霊幻はどこまでもモブと変わらないのが彼は茂夫が思うほど線引きしてモブを捉えていないことがわかった。最後のモブがあの世界から一歩引いてはいるが嫌悪より憧憬の映るあのモブであった。大人だとより刺さるキャラだろう。彼は自分の弱さを自覚しているからこそ、モブに手を差し出せた。

 

話だと全部を通した中で最も印象深かったのがサイコヘルメット教回。周りはどんどん離れていき、弟の律や恩師の霊幻までもが訴えかける。間違っていると。受け入れろと。最初のモブなら知らないが、今の彼は前にも同じ目にあったのを学習済みだ。異邦人は何度目だ。直面させられる孤独と意志を押し付けられる不快感を画面越しでもひしと感じられる。この異物としてのここに立っていてはいけない寒気と揺らぎを、囲い込まれた鼠のような行き場のなさを、絶望感ではなくゆっくり歩みよる影のように描かれたのが一番引き込まれた。仲間が、つながりが、支えが崩れ落ちる。切り取られた自分はどうすれば良い。モブには答えも背景もわかっていた。

これを踏まえてのエクボ戦が熱い。こういう日常に忍び寄る影と目の前に気が付かなかった袋小路という展開が好き。

 

 

 

いざ言葉にすれば思いのほか血の匂いがする捉え方をしていたし、主語が急にでかくなるので思いのままに手を動かすのは気が引けるが、そうでもしないと脳裏に浮かんだ綺晶は彼方へ落っこちて二度と拾えない。頭に瞬間湧いて浮かぶ言葉を拾って打ち込んでくれる機械ができないものか。倫理上の問題で大変なことになるし、大概保守を取るので生きている限りはないと予想するが、どう転ぶかはわからない。

単なる成長物語ではありきたりだ。異能力バトルもありきたりになった。そこに当たり前や自分というあり方にメスを突き刺し、否応なしに前進を命じられたかと思えば空中分解することもある緩急。真っ暗闇に自分で引いた一本道が明るみを帯びてきて、夜明けが来る頃には線がなくたって歩む道筋も頭で描ける。見る先は遥か遠くじゃなくたって、まずは目に映る範囲を大切にしよう。夜は自分が揺らぎそうで無性に恐ろしくなるけれど、もう怖くない。不安に手を差し伸べ抱きしめてみれば、きっと自分と同じ姿をしている。

『メインテーマは殺人』アンソニー・ホロヴィッツ(ネタバレあり)

※ネタバレあります。

 

探偵小説をどう読むか。

そりゃ推理するんでしょう、という人が多数なのだろうか。

 

推理、又は探偵小説といった類の本は好みの部類に入る。それこそ幼少期には児童文学の探偵ものを手に取り、中でもお気に入りのポワロシリーズは全巻揃えた。では他の著名な作品は?……読んでいない。探偵小説は好きなのだが読むのに労力がいる。小説のジャンルの中で最も一気に読まないと気が済まない。一対一で戦いに挑む、そんな真剣勝負の舞台に持ち込まれるのにすいすいと量をこなすことはできなかった。

 

探偵小説のマニアか、と聞かれれば違うだろう。マニアのイメージはその道に詳しく有名どころはあらかた抑え、自分の探偵小説道というような観点を持ち、作品の甲乙や他の作者や時代背景の比較なども喜々として語る。そこまでの知識はない。

 

探偵小説の何が面白いか。激動のストーリーから美しい伏線回収の後に辿り着く世界の答え。魅力的で底知れぬひとりの探偵。そして、ヘイスティングスやワトスンよろしく読み手側の語り。これらが一気に楽しめる。

私の読み方は推理とはいえない。善良で思考力はごく平均的な一般市民が怪事件に乗り込む。大概探偵に引きずられっぱなしで事件の全貌なんてまるで見えてこない。必死に語り手なりに考えるも推理は空回り、主役の探偵の視点が見たくてしょうがないのに頑なに手札を明かさないその独りよがりさに自身の推理の至らなさから来る悔しさに悶える。気づけばページをめくるのが止まらない、時間はどんどん過ぎ去り新たな証言や出来事が矢継ぎ早に展開される。台風のように舞台はごうごうと動き、最後の答え合わせには度肝を抜かれる。

どこまでも追いかける、引きずられる側なのだ。推理できないし推理しないのに何故探偵小説を読むのか。物事を紐解いて解明できなくても別の楽しみ方はあるし、そんな楽しみ方を許してくれる探偵小説はやはり好きだ。世に出ている推理物はそれだけ辻褄が合うように書かれているので、その分読む際の息苦しさと緊張から読むのにエネルギーを多く消費するが。

 

あらすじ

リンク先、出版社内容情報より引用

自らの葬儀の手配をした当日、資産家の婦人が絞殺される。彼女は殺されることを知っていたのか? 作家のわたし、アンソニーホロヴィッツは、テレビ・ドラマの脚本執筆で知り合った元刑事のホーソーンから連絡を受ける。この奇妙な事件を捜査する自分を描かないかというのだ……。かくしてわたしは、きわめて有能だが偏屈な男と行動をともにすることに……。7冠制覇『カササギ殺人事件』に続く、ミステリの面白さ全開の傑作登場!

 

 

 

 

そんな訳で、マニアでも通でもない私は別の世界線に翻弄されるために探偵小説を読む。アンソニーホロヴィッツの作品はこのホーソーンのシリーズから手に取ったのだが、この表現の豊かさは視界にありありと情景が浮かぶようだ。探偵小説のストーリーには疑問や不満を抱いたことはないが、これは特に完成されており没入感を味わうことができた。

 

作品自体の完成度の高さや精巧さは本書解説にて語られているので省く。一番の見どころはやはり探偵のホーソーンと語り手のホロヴィッツの掛け合いだろう。探偵と助手の関係が気に食わないとやはり話にものめりこめない。評するなら「このふたりでないと書けなかった」と思えるほど好きである。

 

ホーソーンホロヴィッツ

どっちも子どもっぽいのである。当然両方成人であり、人生の折り返し地点に突入している。我が強いのだ。

ふたりの初めての出会いから関係は穏やかでありふれたものではなかった。ホーソーンは喧嘩腰で入るし(外から見れば)、ホロヴィッツは作家の持つ優れた感性がホーソーンの苛立つ部分に大きく乱される。本の話を持ち出した時も、ホーソーンホロヴィッツが受け入れる前提で思考を組み立てて話すし、ホロヴィッツはプライドや好奇心の葛藤に苛まれながらもホーソーンの思うままになるまいともがく。

なんで初っ端からゲームのような化かし合いをしてるんだ。しかもこれがそれぞれの視点からすればそう動くのも納得できる落としどころがあるのが面白い。どちらかがクレイジーで頭のねじが全部飛んでるような奴だったら「あっそうですね」で終わりだが、どちらも生身の人間としての存在感と回路の複雑さ、感情をつかみ取ることができる。

ふたりは駆け引きをしているのか、はたまた相棒なのか、それともビジネスパートナーなのか。答えは決められない。

 

ホーソーンホロヴィッツは頻繁に衝突する。確かに探偵と助手は食い違いが起きて当然だが、それにしても多くないか。お互いにイラカリ、カチーンとくることは日常茶飯事。一度熱が入ったら止まらないし、譲れない部分にずかずか入り込まれたら一気にまくし立ててキレる。彼らは本気だ。

ホロヴィッツ側から見たらホーソーンは余裕綽々に映ることもあるし、自分の誇り(作品についてや作家としての部分)にいたずらされようもなら怒りで返すのは当然だろう。でも、ホーソーンも素直だ。というか嘘や余計な雑念で自分の行動指針を捻じ曲げることをしない。事件を覆う霧を払うべく常に動き回り、安楽椅子探偵とは程遠い姿だ。理解できないし譲れないものは譲れない部分がある。妥協や愛想を許さない、大人の意地がそこにはある。

 

ふたりがこんなにも魅力的なのはどことなく子どもらしさがあるからではないか。子どもは未完成でエネルギッシュで、未来がある。ホーソーンの事件のパーツと対面した際の興奮、対人受けしやすそうに繕わない感情、事件解明を目指し駆け回る行動。ホロヴィッツの有名作家という面子、語り演出する先駆者としての情熱、やるべきタスクややりたいクリエイティブな夢が溢れている。実に活き活きとしていて読んでいるだけでもエネルギーを感じる。

 

特にホーソーンの子どもらしさは作中でも強調されている。ふたりの口論ではホロヴィッツが怒りが頂点に達し立ち去ることがある。その時のホーソーンは哀れに描写される。捨てられた子犬、親に叱られ置いて行かれた息子のよう。単に「なんで行っちゃうの?」みたいにホロヴィッツの行動が理解できない天然じみた部分もあるだろうが、拒絶を想定していなくていざ叩きつけられ困惑しているように見える。

互いに傷つけて、理解できなくて、でも傷が増えるたびに何かが胸の内に触れる気がする。大人になる前の、青くて苦いような付き合いが探偵小説で読めるとは思っていなかった。

 

結局最後の最後で足元をすくわれてしまう訳で心を許すことをホーソーンは許してくれないのだが、足取りをひた隠しにしようとするそれは嗜虐心というよりかは恐れに見える。これからふたりはどんな道を歩むのか、気になって仕方ない。

 

探偵小説という完結された世界

推理は外した。そもそも最初っから推理してない。頭で考えるには鈍くてキャパシティが小さいので、使われておらず劣化した頭でちんたら考えるより目の前の世界が面白くて先に進んでしまう。ホロヴィッツも気づいたダイアナ夫人実は視力悪くないのでは説すら気づかなかったレベルのおつむである。読み進めている中でこの人かな?と仮置きして進めるもそいつは別の事件の引き金だった。ホーソーンの語りで「へー初めて知った」というようなことしかなかったので、つくづく物事を整理するのが苦手だと実感する。

 

探偵小説に登場人物がわんさか出てくるのは当たり前だが、彼らも人生という歴史を背負って歩んでいるのがわかる。下手な小説よりもずっと短くすっきりまとまった文章で綴られる物語はその厚みと生気を感じる。特にRADA関連の人物は大変興味深く、新しい世界と感情の交差を見ることができた。好みや趣味が偏って視野が狭い身からしたら、色んな人物の愛憎まみれる姿をこんなにも豊かで彩りがありつつも俯瞰的な視点から描かれるのは、贅沢だ。

いくら対面で人と会おうとも、その内面やデリケートな部分、ましてや醜い心や鋭利な部分なんて見れっこない。それが垣間見ることができるのが小説の良さだ。探偵小説は特に大勢の人物の屈折のし合いが楽しめる。たくさんの人物を配置するのは苦労するが、探偵小説というフィールドが違和感なく人々を生かす。

 

様々な場所や人物の視覚的な叙述が味わえるのも醍醐味だ。土地、人がありありとホロヴィッツの目から感じるもの思うものが描き出される。文章でもこんなに情景や顔が浮かばせることができる、想像の余地の残された語りは引き込まれる。

私個人が風景や人の特徴を目で見たまんま切り取るということが苦手なので、新鮮にも感じる。私だと主観や感情、好みや見えもしない背景が雨のように横やりを入れてくるので、何かを見ているようでも見てなんかいない。自分ばかり見ているのでこうやって現実に引き戻してくれて、かつ空想で彩を入れる余地を残してくれる表現には有難さしかない。そこにちょっとした伏線が忍び込まれていた時の驚きといったらない。

 

 

 

長々と書いてきたが、総じて言えば購入して読んだことを惜しまない、楽しむことができた作品である。自分語りや好みの話に終始してしまったが、内面に触れることができるほど思考や感情に入り込んでくる作品である。有識者のように優劣や比較などできもしないが、素人が言ってもそれはそれで面白いのかなと。プロでなくても口を開けることが許されたブログというフィールドでは、剥き出しの感情を晒しても良い気がする。

シリーズ3巻が最近発売され、ふたりの物語は始まったばかり。これからも奇妙で残酷で、それでも暖かい世界を彼らの目を通して見せてほしいと願う。

 

カップの中には何がある

本を読む理由は人それぞれだし、探偵小説を読む理由も多岐にわたる。

読書を能動的な営みで一種の対話の空間と捉える人もいれば、何か得たい情報や体験があり明確な目的の中で入りこむ人もいる。

 

自分が能動的にやってきたことは何なのだろうか。

逃げてばかりでのらりくらししてきた自分の手を見れば何も残っていない。歩いてきた足跡こそあれど、その足取りはよろよろとして法則性がない。目の前には真っ白な大地。毎回踏み入るたびに後悔して文句を垂れて、なのにふらついた足取りは変わろうとしない。

本はうつろい流れゆく感情の出口を無くした人へのダクトとなる。本を読んでいる間は路頭に迷わず楽しみ、驚き、時に怒り、また泣く。空洞の身体に熱い情動を湧き起こし、流れ落ちた際には満ち足りた読了の余韻に浸れる。

空っぽのカップのようだ。そこにいる理由や目的を見出せず、注ぎ込まれる飲み物に一喜一憂して、飲み干されればまた空っぽになる。残るは茶渋。注がれる飲み物を大口をあけて待っていて、飲み干して、また空になって、その繰り返し。

動こうとしない。変わろうとしない。おとぎ話のような"何か"を待って、ただそこにしんと佇んでいる。

 

そんなものだから、負うべき責任から逃げ続けていたものだから、常に身に隙間風が吹きつけるようだ。言われなきゃやらない、やったらやったで目の前のタスクに追われて空間に仕事が詰め込まれているその忙しさに追われて、空腹を忘れることができる。でも、義務が終われば野原に投げ込まれたように、急に目の前の広大さに萎縮する。

空っぽの身に何かを詰め込んでいないと落ち着かない。このままゆっくり時が過ぎて停滞していき、じきに歩みが止まるのは目に見えている。だから本、映画、音楽、ゲーム、絵画といったものを"消費"するために必死に詰め込んだ。忘れていられるのだ。だだっ広い空間で小さく縮こまってスマホの画面に食いついていてニヤニヤ笑っていれば、自分の座っているあまりにも広すぎて真っ白で、キャンバスのような空間から背けていられる。

閉じこもった世界で物を消費してばかり、自分の手札を増やしてばかりでは、時が過ぎるだけだ。それを痛感させられたのは、これまでの決断を消去法だったり自分の意の介さない別の目的に沿ったものばかり選択していたからだ。責任を他の物や人に預けていられる。それで行き当たりばったりなのにも気づかずに、ふと後ろを振り向けば今にも消えかかりそうな足跡が点々と、ぽつん、ぽつんとあるのみ。

何が見えていますか。周りを見渡せば、所々に一点めがけて視点を集中し疾走する人もいれば、ヘンゼルとグレーテルよろしく道に石を置いて中継地点をいそいそとつくっている人もいる。その人たちの後ろには、一本の道が見える。気がする。その先にも道が通っている。ように思える。

 

もしずっと先の道が眩しい、または暗くて見えなかったとしても、視界に広がる目先の地面に線を引くことはできないだろうか。人を、物を、世界を使い捨ててきた自分に、これからでも歩道をつくれないだろうか。

 

これまで自らやってきたことといえば、その時の感情を本や絵といった媒体を通じて吐き出す、ある対象をできる限り正確に漏れなく最高の出来で捉えるために有益な情報を探すようなことだ。全部自己完結している。これは自身の手札を延々とドローして加えているに他ならない。集めてあつめて、自分でも「こんなにいらないだろ」と気づくほど貪り、その情報の網羅性と妥当性(主観的な評価に留まる)を確信すれば、本来の目的であった対象をポイ捨てする。

これには収まらず、その成果を人に喋ったりネット上に投稿したりした。自分一人の評価じゃ心もとないのである。自分の感情を整理して正当化しようとして、もしそれで評価されるなら自分の意見に正当性があるからではないか。自分は正しいんだ。それは自分のためであって、もっと知って関係を深めていく筈だった対象のためではない。

 

では認められれば、周囲から、あらゆる人から賛同され褒め称えられれば目的は達成されたのか。否。それをまた捨てた。普通なら期待に応えてより頑張って自分の技術を向上させたのかもしれない。また、他にもやりたいことはあってその感動と感謝を胸に新たなステップへ足を踏み入れたかもしれない。どちらでもなかった。逃げて、また誰一人いない空のカップに戻ってきて。それでおしまいだった。

残るは失意だ。これってやりたいことだよね?自分からやったことだよね?もっと、もっと見せて。もし目的が「誰かに自分の作品を認めてもらう」ならば一切の迷いもなく、力強く頷いてみせた。「自分の作品が評価される」ならばもっと良い評価を、もっとたくさんの人から貰うために排出してみせるだろう。目に、関心に、期待に、生身の感情から逃げた。目を合わせなかった。人々は去っていく。立ち去るより他ない。無人の店に入る人などいない。

 

可能性が固まるその瞬間、足はすっと立ち、軽やかに去る。誰かや何かを助けられる手札は揃っているのに、場のカードがオープンされる前に席を立ち去る。そんな逃げが通じるのは逃げる先の道が残っているからだ。そんなことを繰り返していたある日、足元に歩道がないことに気づいた。自分で道を塗装する人、一気にひいてから薄くても歩いてみる人、そんな中で自分には足跡しか残せない。

まって。その道ってどこにあったの。どうやってつくればいいの。困ったことに道をつくる材料は自分でしかつくれない。材質や量、形によってつくれる道も違ってくる。手を見る。何も持っていない。

 

自分から進んでやることが最後のゴールにあれば良い。寄り道ルートはあってもいいけれど、終点はひとつだけ。それが一番今の自分に自信がもてるのだ。枝分かれする道ばかり目がいって、道案内を他人に任せて、終着駅が霞んでいる。真下を見て歩いていれば、目先の選択はできるけれど、更に道が枝分かれしていて、とりあえずのその場の思いつきで選んで、選択肢が段々ときつくなってきて、後ろを振り返ればなんでそんなルートを選んだんだと憤慨する。

責任が取れない。何故?責任を取れる程確信して道を選べないから。道を見れば不安や問題、ケチをつける所が掘っても掘っても尽きないから。他人に責任を押し付けていないと足元から崩れ落ちるから。自由になりたいのに、一番人を窺って物乞いのような目をする。自信を持ちたいのに、その支えに他人や物を利用しないと立っていられない。

 

そうやって詰め込んでは吐いて、詰め込んでは吐いてを繰り返して何を残したいか。きっと爪痕なんだろう。好きなものを完璧に理解したい。魅力を最大限に理解したい。そんな風に理解できるような人になりたい。わかったならその過程で得た自分の感情、考え、経験をまた誰かに伝えて利用してほしい。その誰かが何かを理解する時の一枚の手札にしてほしい。欲を言えば有用な手札の一枚に。

その根幹にあるのはやはり自己満足だ。理解したいとは言うけれどありとあらゆる古今東西の分野から集めた試しはない。そこまで労力をかけていては集めきった際にはほとぼりは冷めているだろう。感情を良くも悪くもかき乱す"何か"、現状とその背景、そして未来にどう繋がるかを知りたい。それを知ったとしてどうするのか。アドバイザーでもやるのか。人生の先生にでもなるつもりなのか。そうではない。知って、解析度が上がって、新しい世界がそのものを通じて見えた時その一瞬を、渇望している。

 

その対象は何だっていいのかもしれない。探そうと思えば自分の心を揺さぶるようなものは砂の程見つかる。ではその手段が大事なのか。そうでもないらしい。世の中にはある事象を捉えるひとつの眼鏡という名の学問は数多あるが、それらを極めようとは思わない。学問の中には特に好き好んで共感するものもあるが、だからといって学者になろうとは思わない。学者になるには解明しなければならない"相手"を探し出した人がなるのが大多数だ。そんなものは今の所ない。パートナーはいたとしても振りほどいていただろう。責任を全部投げつけられる相手じゃなければ逃げていたから。

対象も手段もどうでもいい、ついでに見返りも視野に入ってない。何かを成し遂げて喜んでもらえたって(喜んでもらうのが目的だった場合を除く)、有効に使ってもらえて評価されたって、副産物でしかない。ならよかった。そう思ってやったものじゃないけれど。努力と苦悶の末に完成させたって、99%が100%になった瞬間に沸騰しかけた情動が雲散する。終わりだ。後からどれだけ何かがあったとしても、遠い昔の偉業を振り返る他ならない。自分からその成果を切り落としていれば、足元に落っこちて気づきやしない。ないないと叫んでいた自分に対する誰かの感情だって、呼びかけられているのにイヤホンをしていればわかるはずもない。

 

いつ起こり得るかもわからない、自分の感情を昇華させるその瞬間を完全なものにするためにいるのだろう。そしてそれが外に向かう時は、どうどうと落ちる感情の滝が外部にある何かに流れた時。その一瞬を完璧なものにするために、集められるだけの手札を蓄えておく。その時に一番重きを置いているのは人の主観。経験。感情。だってその人にしか成し得ないことではないか。

木を見る。きれいだと思う人もいれば花粉症で目の敵にする人、過去の記憶を振り返り思い出に浸る人もいるし、目の前の生ものの命に驚かされて自身の冷たさに悲しくなる人もいるだろう。その感想はその人にしか言えない。その歴史、歩んできた時間、携えてきた感情はそのたったひとりにしか成し得ない。代えなんているはずもない。同じ時にそっくり同じ構造のロボットがいたとしたって、その人とロボットはひとつではないのだから同じな訳がない。

その人しか持てないその心を、思いを、思考を、時間を、歴史を、表出されるもの全てが価値の塊だ。鼻につく物言いだが、何かにずっと恋をしていたいのかもしれない。止めどない情動の注がれる先をとっかえひっかえして、その瞬間の自分に酔っていたいのかもしれない。

 

対象、手段、見返りが重なり合って、それに感情を注げられるか。注いだ先にカップはあるのか。理解すれば視野がパッと広がる、そんな相手が返してくれるかはどうでもいいので、情動をぶちまけられるだけの隙間があるのか。空っぽのカップは、実はなみなみと注がれたカップだったのだろうか。全てを注ぎきれば中は空になる。放っておけば勝手に中身が満ちてくるのでまた注ぐ空のカップを探す。そのカップのデザインは自分好みに違いない。

そんな火山の噴火みたいにコントロールしようのないものを道しるべにしてはならない。そんな信用のおけない気まぐれで爆竹のような奴に道案内を頼んでいては、頼んでいる自分こそ危ない奴だ。

 

自分の感情に水を差されたくない。感情を理解するために使えるものは何でも使いたい。周囲によく提示されている望ましい目的には心から納得できない。選択を先送りにして諦めて、責任を負うことを極端なまでに回避し続けてきた。

では自分と相手の感情を理解し深く沈んでいくために、媒体に助けてもらうのはどうか。それでは今までとまるで変わらない、酷い飽き性でポイ捨て常習犯なのに。それでも、今まで投じてきた感情や時間、知識や知見といった情報が風化していくのは嫌だった。せっかくたくさんの自分を投じてきたのに時が経つにつれて揺らいで塵となって消えてしまうのは苦痛だ。それでこれまでにも記憶の残骸のようなメモなら残してきた。

 

続かないのはその向き合っている間の労力と結果が見合ってないと思ってしまうからだ。最初は意気揚々としていて次第に「この時間に別のことできるよな」と飽きがくる。書くという消化の手段に意義を感じなくなる。また、余計に肩の力が入り期待に応えたいと思えば思うほど、理想とは違う矮小な自身に嫌気がさす。全人類を感嘆させようと躍起になっているのに、目的は全くもって関係がないというこの手段と目的のアンバランスさに気づけなさは最早お家芸と化している。

ではなぜ今、この文章はここまで書けているのだろうか。しかも休憩無しのぶっ通しで。自分に利益があるからに他ならない。正しく吐瀉物であろうこの文章を知人にでも見せようものなら、ただでさえろくでもない奴だと言われているのにその説に拍車がかかる。自己満足である。結局は自分の世界から出れないし出ようともしないのだ。出てしまえば、そこの世界で自己投影できそうな代物をひっ捕まえるだろう。

何だっていいのだ。それが大義名分であろうとも、たったひとりの誰かであろうとも、成し得たことで手に入る称賛であろうとも。外から見れば世界に足がついているようで実のところ閉じこもっているままだ。

 

自分に利益があって、その過程の中で新しい視点や知見が得られて、よかったら誰かのためになる可能性がある。それがブログだ。これまで何べんも折れてきたのは書くことでのメリットが増えないこと、評価ばかり気にして数字しか頭になくなったことが原因だ。肥大化して暴走が止められなくなった自分に冷や水をかけてくれる恩人などそういない。自分で消化して飲み込んでいかなければならない。頭と心を整理して掃除をして、片付いて見える景色はごみ屋敷とは違うだろう。

 

歪み切った理想と繊細なくせに飢えやすい自己愛。慰めるも躾けるも自分にしかできない。初めから最後まで自己満足で閉じられた道は、脇道が豊富なようだ。では、自分自身は自分で満足させるとして、記憶に残っている喜びはあるか。

どれも人だ。贈られた感謝の言葉、喜びの言葉、興奮の言葉。たったひとり、自分だけに贈ってくれたその目を見たことはあったか?見ていて覚えているのに、目の前の感情に憑りついてあれだけ大事だと謳っていた感情を受け流していたのか?周りに誰もいなくなってから、あの時の自分にだけ向けられた言葉の尊さと熱さに気づいて、後悔しては同じことを繰り返す。

手に持っている手札は集めて眺めて終わりではない。昔から誰かに使っていたことはあった筈だ。責任を抱えたくなかった。誰かの気持ちを正面から受け取る、その覚悟がなかった。自分のためだと信じて必死にかき集めていた手札は、いつか未来で自分に贈り物をくれた人に渡す花束ではなかったか。ひとりでは立っていられない、そんな自分に手を差し伸べてくれた人の手を握り返す勇気をくれるものではなかったのか。

 

そんな人は、きっと心優しい。気が付いて、心配して、怒って、理解しようとしてくれる人だ。何か別の目的があるかもしれないがそれを抜いても相手と対峙するということは、その瞬間に自身の感情や思考、時間を一極に集中させ経験が織られていく。そのために気持ちを共有したいし困っていることがあれば力になりたい。そうではなかったか。はじめの気持ちが不安や攻撃性、怯えや蔑みに歪曲させられて、いつもは埋もれている。

 

私は決断ができない。意志は弱い。欲望はぐらついており時に意識できない。そうやって気づけば足元は底なしの崖だ。頻繁に「空」や「何もない」という表現を使う。そこは空洞なのかびっしりと詰まっていて入れる余地がないのかはわからないが、逃げてばかりではいられないのだ。逃げるなとは言われていない。そんな要求はされていない。だがこのままでは私は"何者でもない"自分へつける薬のレパートリーが尽きるし、遥か高い空か真っ暗闇の地面ばかり見て首はもげる。そうして自身への処方箋をせっせと書いていたら、周りで苦しんでいたり私が何かできるその時を延々と逃す。

 

ここには何が残るのだろうか。このブログというカップには何がある。