『メインテーマは殺人』アンソニー・ホロヴィッツ(ネタバレあり)

※ネタバレあります。

 

探偵小説をどう読むか。

そりゃ推理するんでしょう、という人が多数なのだろうか。

 

推理、又は探偵小説といった類の本は好みの部類に入る。それこそ幼少期には児童文学の探偵ものを手に取り、中でもお気に入りのポワロシリーズは全巻揃えた。では他の著名な作品は?……読んでいない。探偵小説は好きなのだが読むのに労力がいる。小説のジャンルの中で最も一気に読まないと気が済まない。一対一で戦いに挑む、そんな真剣勝負の舞台に持ち込まれるのにすいすいと量をこなすことはできなかった。

 

探偵小説のマニアか、と聞かれれば違うだろう。マニアのイメージはその道に詳しく有名どころはあらかた抑え、自分の探偵小説道というような観点を持ち、作品の甲乙や他の作者や時代背景の比較なども喜々として語る。そこまでの知識はない。

 

探偵小説の何が面白いか。激動のストーリーから美しい伏線回収の後に辿り着く世界の答え。魅力的で底知れぬひとりの探偵。そして、ヘイスティングスやワトスンよろしく読み手側の語り。これらが一気に楽しめる。

私の読み方は推理とはいえない。善良で思考力はごく平均的な一般市民が怪事件に乗り込む。大概探偵に引きずられっぱなしで事件の全貌なんてまるで見えてこない。必死に語り手なりに考えるも推理は空回り、主役の探偵の視点が見たくてしょうがないのに頑なに手札を明かさないその独りよがりさに自身の推理の至らなさから来る悔しさに悶える。気づけばページをめくるのが止まらない、時間はどんどん過ぎ去り新たな証言や出来事が矢継ぎ早に展開される。台風のように舞台はごうごうと動き、最後の答え合わせには度肝を抜かれる。

どこまでも追いかける、引きずられる側なのだ。推理できないし推理しないのに何故探偵小説を読むのか。物事を紐解いて解明できなくても別の楽しみ方はあるし、そんな楽しみ方を許してくれる探偵小説はやはり好きだ。世に出ている推理物はそれだけ辻褄が合うように書かれているので、その分読む際の息苦しさと緊張から読むのにエネルギーを多く消費するが。

 

あらすじ

リンク先、出版社内容情報より引用

自らの葬儀の手配をした当日、資産家の婦人が絞殺される。彼女は殺されることを知っていたのか? 作家のわたし、アンソニーホロヴィッツは、テレビ・ドラマの脚本執筆で知り合った元刑事のホーソーンから連絡を受ける。この奇妙な事件を捜査する自分を描かないかというのだ……。かくしてわたしは、きわめて有能だが偏屈な男と行動をともにすることに……。7冠制覇『カササギ殺人事件』に続く、ミステリの面白さ全開の傑作登場!

 

 

 

 

そんな訳で、マニアでも通でもない私は別の世界線に翻弄されるために探偵小説を読む。アンソニーホロヴィッツの作品はこのホーソーンのシリーズから手に取ったのだが、この表現の豊かさは視界にありありと情景が浮かぶようだ。探偵小説のストーリーには疑問や不満を抱いたことはないが、これは特に完成されており没入感を味わうことができた。

 

作品自体の完成度の高さや精巧さは本書解説にて語られているので省く。一番の見どころはやはり探偵のホーソーンと語り手のホロヴィッツの掛け合いだろう。探偵と助手の関係が気に食わないとやはり話にものめりこめない。評するなら「このふたりでないと書けなかった」と思えるほど好きである。

 

ホーソーンホロヴィッツ

どっちも子どもっぽいのである。当然両方成人であり、人生の折り返し地点に突入している。我が強いのだ。

ふたりの初めての出会いから関係は穏やかでありふれたものではなかった。ホーソーンは喧嘩腰で入るし(外から見れば)、ホロヴィッツは作家の持つ優れた感性がホーソーンの苛立つ部分に大きく乱される。本の話を持ち出した時も、ホーソーンホロヴィッツが受け入れる前提で思考を組み立てて話すし、ホロヴィッツはプライドや好奇心の葛藤に苛まれながらもホーソーンの思うままになるまいともがく。

なんで初っ端からゲームのような化かし合いをしてるんだ。しかもこれがそれぞれの視点からすればそう動くのも納得できる落としどころがあるのが面白い。どちらかがクレイジーで頭のねじが全部飛んでるような奴だったら「あっそうですね」で終わりだが、どちらも生身の人間としての存在感と回路の複雑さ、感情をつかみ取ることができる。

ふたりは駆け引きをしているのか、はたまた相棒なのか、それともビジネスパートナーなのか。答えは決められない。

 

ホーソーンホロヴィッツは頻繁に衝突する。確かに探偵と助手は食い違いが起きて当然だが、それにしても多くないか。お互いにイラカリ、カチーンとくることは日常茶飯事。一度熱が入ったら止まらないし、譲れない部分にずかずか入り込まれたら一気にまくし立ててキレる。彼らは本気だ。

ホロヴィッツ側から見たらホーソーンは余裕綽々に映ることもあるし、自分の誇り(作品についてや作家としての部分)にいたずらされようもなら怒りで返すのは当然だろう。でも、ホーソーンも素直だ。というか嘘や余計な雑念で自分の行動指針を捻じ曲げることをしない。事件を覆う霧を払うべく常に動き回り、安楽椅子探偵とは程遠い姿だ。理解できないし譲れないものは譲れない部分がある。妥協や愛想を許さない、大人の意地がそこにはある。

 

ふたりがこんなにも魅力的なのはどことなく子どもらしさがあるからではないか。子どもは未完成でエネルギッシュで、未来がある。ホーソーンの事件のパーツと対面した際の興奮、対人受けしやすそうに繕わない感情、事件解明を目指し駆け回る行動。ホロヴィッツの有名作家という面子、語り演出する先駆者としての情熱、やるべきタスクややりたいクリエイティブな夢が溢れている。実に活き活きとしていて読んでいるだけでもエネルギーを感じる。

 

特にホーソーンの子どもらしさは作中でも強調されている。ふたりの口論ではホロヴィッツが怒りが頂点に達し立ち去ることがある。その時のホーソーンは哀れに描写される。捨てられた子犬、親に叱られ置いて行かれた息子のよう。単に「なんで行っちゃうの?」みたいにホロヴィッツの行動が理解できない天然じみた部分もあるだろうが、拒絶を想定していなくていざ叩きつけられ困惑しているように見える。

互いに傷つけて、理解できなくて、でも傷が増えるたびに何かが胸の内に触れる気がする。大人になる前の、青くて苦いような付き合いが探偵小説で読めるとは思っていなかった。

 

結局最後の最後で足元をすくわれてしまう訳で心を許すことをホーソーンは許してくれないのだが、足取りをひた隠しにしようとするそれは嗜虐心というよりかは恐れに見える。これからふたりはどんな道を歩むのか、気になって仕方ない。

 

探偵小説という完結された世界

推理は外した。そもそも最初っから推理してない。頭で考えるには鈍くてキャパシティが小さいので、使われておらず劣化した頭でちんたら考えるより目の前の世界が面白くて先に進んでしまう。ホロヴィッツも気づいたダイアナ夫人実は視力悪くないのでは説すら気づかなかったレベルのおつむである。読み進めている中でこの人かな?と仮置きして進めるもそいつは別の事件の引き金だった。ホーソーンの語りで「へー初めて知った」というようなことしかなかったので、つくづく物事を整理するのが苦手だと実感する。

 

探偵小説に登場人物がわんさか出てくるのは当たり前だが、彼らも人生という歴史を背負って歩んでいるのがわかる。下手な小説よりもずっと短くすっきりまとまった文章で綴られる物語はその厚みと生気を感じる。特にRADA関連の人物は大変興味深く、新しい世界と感情の交差を見ることができた。好みや趣味が偏って視野が狭い身からしたら、色んな人物の愛憎まみれる姿をこんなにも豊かで彩りがありつつも俯瞰的な視点から描かれるのは、贅沢だ。

いくら対面で人と会おうとも、その内面やデリケートな部分、ましてや醜い心や鋭利な部分なんて見れっこない。それが垣間見ることができるのが小説の良さだ。探偵小説は特に大勢の人物の屈折のし合いが楽しめる。たくさんの人物を配置するのは苦労するが、探偵小説というフィールドが違和感なく人々を生かす。

 

様々な場所や人物の視覚的な叙述が味わえるのも醍醐味だ。土地、人がありありとホロヴィッツの目から感じるもの思うものが描き出される。文章でもこんなに情景や顔が浮かばせることができる、想像の余地の残された語りは引き込まれる。

私個人が風景や人の特徴を目で見たまんま切り取るということが苦手なので、新鮮にも感じる。私だと主観や感情、好みや見えもしない背景が雨のように横やりを入れてくるので、何かを見ているようでも見てなんかいない。自分ばかり見ているのでこうやって現実に引き戻してくれて、かつ空想で彩を入れる余地を残してくれる表現には有難さしかない。そこにちょっとした伏線が忍び込まれていた時の驚きといったらない。

 

 

 

長々と書いてきたが、総じて言えば購入して読んだことを惜しまない、楽しむことができた作品である。自分語りや好みの話に終始してしまったが、内面に触れることができるほど思考や感情に入り込んでくる作品である。有識者のように優劣や比較などできもしないが、素人が言ってもそれはそれで面白いのかなと。プロでなくても口を開けることが許されたブログというフィールドでは、剥き出しの感情を晒しても良い気がする。

シリーズ3巻が最近発売され、ふたりの物語は始まったばかり。これからも奇妙で残酷で、それでも暖かい世界を彼らの目を通して見せてほしいと願う。