カップの中には何がある

本を読む理由は人それぞれだし、探偵小説を読む理由も多岐にわたる。

読書を能動的な営みで一種の対話の空間と捉える人もいれば、何か得たい情報や体験があり明確な目的の中で入りこむ人もいる。

 

自分が能動的にやってきたことは何なのだろうか。

逃げてばかりでのらりくらししてきた自分の手を見れば何も残っていない。歩いてきた足跡こそあれど、その足取りはよろよろとして法則性がない。目の前には真っ白な大地。毎回踏み入るたびに後悔して文句を垂れて、なのにふらついた足取りは変わろうとしない。

本はうつろい流れゆく感情の出口を無くした人へのダクトとなる。本を読んでいる間は路頭に迷わず楽しみ、驚き、時に怒り、また泣く。空洞の身体に熱い情動を湧き起こし、流れ落ちた際には満ち足りた読了の余韻に浸れる。

空っぽのカップのようだ。そこにいる理由や目的を見出せず、注ぎ込まれる飲み物に一喜一憂して、飲み干されればまた空っぽになる。残るは茶渋。注がれる飲み物を大口をあけて待っていて、飲み干して、また空になって、その繰り返し。

動こうとしない。変わろうとしない。おとぎ話のような"何か"を待って、ただそこにしんと佇んでいる。

 

そんなものだから、負うべき責任から逃げ続けていたものだから、常に身に隙間風が吹きつけるようだ。言われなきゃやらない、やったらやったで目の前のタスクに追われて空間に仕事が詰め込まれているその忙しさに追われて、空腹を忘れることができる。でも、義務が終われば野原に投げ込まれたように、急に目の前の広大さに萎縮する。

空っぽの身に何かを詰め込んでいないと落ち着かない。このままゆっくり時が過ぎて停滞していき、じきに歩みが止まるのは目に見えている。だから本、映画、音楽、ゲーム、絵画といったものを"消費"するために必死に詰め込んだ。忘れていられるのだ。だだっ広い空間で小さく縮こまってスマホの画面に食いついていてニヤニヤ笑っていれば、自分の座っているあまりにも広すぎて真っ白で、キャンバスのような空間から背けていられる。

閉じこもった世界で物を消費してばかり、自分の手札を増やしてばかりでは、時が過ぎるだけだ。それを痛感させられたのは、これまでの決断を消去法だったり自分の意の介さない別の目的に沿ったものばかり選択していたからだ。責任を他の物や人に預けていられる。それで行き当たりばったりなのにも気づかずに、ふと後ろを振り向けば今にも消えかかりそうな足跡が点々と、ぽつん、ぽつんとあるのみ。

何が見えていますか。周りを見渡せば、所々に一点めがけて視点を集中し疾走する人もいれば、ヘンゼルとグレーテルよろしく道に石を置いて中継地点をいそいそとつくっている人もいる。その人たちの後ろには、一本の道が見える。気がする。その先にも道が通っている。ように思える。

 

もしずっと先の道が眩しい、または暗くて見えなかったとしても、視界に広がる目先の地面に線を引くことはできないだろうか。人を、物を、世界を使い捨ててきた自分に、これからでも歩道をつくれないだろうか。

 

これまで自らやってきたことといえば、その時の感情を本や絵といった媒体を通じて吐き出す、ある対象をできる限り正確に漏れなく最高の出来で捉えるために有益な情報を探すようなことだ。全部自己完結している。これは自身の手札を延々とドローして加えているに他ならない。集めてあつめて、自分でも「こんなにいらないだろ」と気づくほど貪り、その情報の網羅性と妥当性(主観的な評価に留まる)を確信すれば、本来の目的であった対象をポイ捨てする。

これには収まらず、その成果を人に喋ったりネット上に投稿したりした。自分一人の評価じゃ心もとないのである。自分の感情を整理して正当化しようとして、もしそれで評価されるなら自分の意見に正当性があるからではないか。自分は正しいんだ。それは自分のためであって、もっと知って関係を深めていく筈だった対象のためではない。

 

では認められれば、周囲から、あらゆる人から賛同され褒め称えられれば目的は達成されたのか。否。それをまた捨てた。普通なら期待に応えてより頑張って自分の技術を向上させたのかもしれない。また、他にもやりたいことはあってその感動と感謝を胸に新たなステップへ足を踏み入れたかもしれない。どちらでもなかった。逃げて、また誰一人いない空のカップに戻ってきて。それでおしまいだった。

残るは失意だ。これってやりたいことだよね?自分からやったことだよね?もっと、もっと見せて。もし目的が「誰かに自分の作品を認めてもらう」ならば一切の迷いもなく、力強く頷いてみせた。「自分の作品が評価される」ならばもっと良い評価を、もっとたくさんの人から貰うために排出してみせるだろう。目に、関心に、期待に、生身の感情から逃げた。目を合わせなかった。人々は去っていく。立ち去るより他ない。無人の店に入る人などいない。

 

可能性が固まるその瞬間、足はすっと立ち、軽やかに去る。誰かや何かを助けられる手札は揃っているのに、場のカードがオープンされる前に席を立ち去る。そんな逃げが通じるのは逃げる先の道が残っているからだ。そんなことを繰り返していたある日、足元に歩道がないことに気づいた。自分で道を塗装する人、一気にひいてから薄くても歩いてみる人、そんな中で自分には足跡しか残せない。

まって。その道ってどこにあったの。どうやってつくればいいの。困ったことに道をつくる材料は自分でしかつくれない。材質や量、形によってつくれる道も違ってくる。手を見る。何も持っていない。

 

自分から進んでやることが最後のゴールにあれば良い。寄り道ルートはあってもいいけれど、終点はひとつだけ。それが一番今の自分に自信がもてるのだ。枝分かれする道ばかり目がいって、道案内を他人に任せて、終着駅が霞んでいる。真下を見て歩いていれば、目先の選択はできるけれど、更に道が枝分かれしていて、とりあえずのその場の思いつきで選んで、選択肢が段々ときつくなってきて、後ろを振り返ればなんでそんなルートを選んだんだと憤慨する。

責任が取れない。何故?責任を取れる程確信して道を選べないから。道を見れば不安や問題、ケチをつける所が掘っても掘っても尽きないから。他人に責任を押し付けていないと足元から崩れ落ちるから。自由になりたいのに、一番人を窺って物乞いのような目をする。自信を持ちたいのに、その支えに他人や物を利用しないと立っていられない。

 

そうやって詰め込んでは吐いて、詰め込んでは吐いてを繰り返して何を残したいか。きっと爪痕なんだろう。好きなものを完璧に理解したい。魅力を最大限に理解したい。そんな風に理解できるような人になりたい。わかったならその過程で得た自分の感情、考え、経験をまた誰かに伝えて利用してほしい。その誰かが何かを理解する時の一枚の手札にしてほしい。欲を言えば有用な手札の一枚に。

その根幹にあるのはやはり自己満足だ。理解したいとは言うけれどありとあらゆる古今東西の分野から集めた試しはない。そこまで労力をかけていては集めきった際にはほとぼりは冷めているだろう。感情を良くも悪くもかき乱す"何か"、現状とその背景、そして未来にどう繋がるかを知りたい。それを知ったとしてどうするのか。アドバイザーでもやるのか。人生の先生にでもなるつもりなのか。そうではない。知って、解析度が上がって、新しい世界がそのものを通じて見えた時その一瞬を、渇望している。

 

その対象は何だっていいのかもしれない。探そうと思えば自分の心を揺さぶるようなものは砂の程見つかる。ではその手段が大事なのか。そうでもないらしい。世の中にはある事象を捉えるひとつの眼鏡という名の学問は数多あるが、それらを極めようとは思わない。学問の中には特に好き好んで共感するものもあるが、だからといって学者になろうとは思わない。学者になるには解明しなければならない"相手"を探し出した人がなるのが大多数だ。そんなものは今の所ない。パートナーはいたとしても振りほどいていただろう。責任を全部投げつけられる相手じゃなければ逃げていたから。

対象も手段もどうでもいい、ついでに見返りも視野に入ってない。何かを成し遂げて喜んでもらえたって(喜んでもらうのが目的だった場合を除く)、有効に使ってもらえて評価されたって、副産物でしかない。ならよかった。そう思ってやったものじゃないけれど。努力と苦悶の末に完成させたって、99%が100%になった瞬間に沸騰しかけた情動が雲散する。終わりだ。後からどれだけ何かがあったとしても、遠い昔の偉業を振り返る他ならない。自分からその成果を切り落としていれば、足元に落っこちて気づきやしない。ないないと叫んでいた自分に対する誰かの感情だって、呼びかけられているのにイヤホンをしていればわかるはずもない。

 

いつ起こり得るかもわからない、自分の感情を昇華させるその瞬間を完全なものにするためにいるのだろう。そしてそれが外に向かう時は、どうどうと落ちる感情の滝が外部にある何かに流れた時。その一瞬を完璧なものにするために、集められるだけの手札を蓄えておく。その時に一番重きを置いているのは人の主観。経験。感情。だってその人にしか成し得ないことではないか。

木を見る。きれいだと思う人もいれば花粉症で目の敵にする人、過去の記憶を振り返り思い出に浸る人もいるし、目の前の生ものの命に驚かされて自身の冷たさに悲しくなる人もいるだろう。その感想はその人にしか言えない。その歴史、歩んできた時間、携えてきた感情はそのたったひとりにしか成し得ない。代えなんているはずもない。同じ時にそっくり同じ構造のロボットがいたとしたって、その人とロボットはひとつではないのだから同じな訳がない。

その人しか持てないその心を、思いを、思考を、時間を、歴史を、表出されるもの全てが価値の塊だ。鼻につく物言いだが、何かにずっと恋をしていたいのかもしれない。止めどない情動の注がれる先をとっかえひっかえして、その瞬間の自分に酔っていたいのかもしれない。

 

対象、手段、見返りが重なり合って、それに感情を注げられるか。注いだ先にカップはあるのか。理解すれば視野がパッと広がる、そんな相手が返してくれるかはどうでもいいので、情動をぶちまけられるだけの隙間があるのか。空っぽのカップは、実はなみなみと注がれたカップだったのだろうか。全てを注ぎきれば中は空になる。放っておけば勝手に中身が満ちてくるのでまた注ぐ空のカップを探す。そのカップのデザインは自分好みに違いない。

そんな火山の噴火みたいにコントロールしようのないものを道しるべにしてはならない。そんな信用のおけない気まぐれで爆竹のような奴に道案内を頼んでいては、頼んでいる自分こそ危ない奴だ。

 

自分の感情に水を差されたくない。感情を理解するために使えるものは何でも使いたい。周囲によく提示されている望ましい目的には心から納得できない。選択を先送りにして諦めて、責任を負うことを極端なまでに回避し続けてきた。

では自分と相手の感情を理解し深く沈んでいくために、媒体に助けてもらうのはどうか。それでは今までとまるで変わらない、酷い飽き性でポイ捨て常習犯なのに。それでも、今まで投じてきた感情や時間、知識や知見といった情報が風化していくのは嫌だった。せっかくたくさんの自分を投じてきたのに時が経つにつれて揺らいで塵となって消えてしまうのは苦痛だ。それでこれまでにも記憶の残骸のようなメモなら残してきた。

 

続かないのはその向き合っている間の労力と結果が見合ってないと思ってしまうからだ。最初は意気揚々としていて次第に「この時間に別のことできるよな」と飽きがくる。書くという消化の手段に意義を感じなくなる。また、余計に肩の力が入り期待に応えたいと思えば思うほど、理想とは違う矮小な自身に嫌気がさす。全人類を感嘆させようと躍起になっているのに、目的は全くもって関係がないというこの手段と目的のアンバランスさに気づけなさは最早お家芸と化している。

ではなぜ今、この文章はここまで書けているのだろうか。しかも休憩無しのぶっ通しで。自分に利益があるからに他ならない。正しく吐瀉物であろうこの文章を知人にでも見せようものなら、ただでさえろくでもない奴だと言われているのにその説に拍車がかかる。自己満足である。結局は自分の世界から出れないし出ようともしないのだ。出てしまえば、そこの世界で自己投影できそうな代物をひっ捕まえるだろう。

何だっていいのだ。それが大義名分であろうとも、たったひとりの誰かであろうとも、成し得たことで手に入る称賛であろうとも。外から見れば世界に足がついているようで実のところ閉じこもっているままだ。

 

自分に利益があって、その過程の中で新しい視点や知見が得られて、よかったら誰かのためになる可能性がある。それがブログだ。これまで何べんも折れてきたのは書くことでのメリットが増えないこと、評価ばかり気にして数字しか頭になくなったことが原因だ。肥大化して暴走が止められなくなった自分に冷や水をかけてくれる恩人などそういない。自分で消化して飲み込んでいかなければならない。頭と心を整理して掃除をして、片付いて見える景色はごみ屋敷とは違うだろう。

 

歪み切った理想と繊細なくせに飢えやすい自己愛。慰めるも躾けるも自分にしかできない。初めから最後まで自己満足で閉じられた道は、脇道が豊富なようだ。では、自分自身は自分で満足させるとして、記憶に残っている喜びはあるか。

どれも人だ。贈られた感謝の言葉、喜びの言葉、興奮の言葉。たったひとり、自分だけに贈ってくれたその目を見たことはあったか?見ていて覚えているのに、目の前の感情に憑りついてあれだけ大事だと謳っていた感情を受け流していたのか?周りに誰もいなくなってから、あの時の自分にだけ向けられた言葉の尊さと熱さに気づいて、後悔しては同じことを繰り返す。

手に持っている手札は集めて眺めて終わりではない。昔から誰かに使っていたことはあった筈だ。責任を抱えたくなかった。誰かの気持ちを正面から受け取る、その覚悟がなかった。自分のためだと信じて必死にかき集めていた手札は、いつか未来で自分に贈り物をくれた人に渡す花束ではなかったか。ひとりでは立っていられない、そんな自分に手を差し伸べてくれた人の手を握り返す勇気をくれるものではなかったのか。

 

そんな人は、きっと心優しい。気が付いて、心配して、怒って、理解しようとしてくれる人だ。何か別の目的があるかもしれないがそれを抜いても相手と対峙するということは、その瞬間に自身の感情や思考、時間を一極に集中させ経験が織られていく。そのために気持ちを共有したいし困っていることがあれば力になりたい。そうではなかったか。はじめの気持ちが不安や攻撃性、怯えや蔑みに歪曲させられて、いつもは埋もれている。

 

私は決断ができない。意志は弱い。欲望はぐらついており時に意識できない。そうやって気づけば足元は底なしの崖だ。頻繁に「空」や「何もない」という表現を使う。そこは空洞なのかびっしりと詰まっていて入れる余地がないのかはわからないが、逃げてばかりではいられないのだ。逃げるなとは言われていない。そんな要求はされていない。だがこのままでは私は"何者でもない"自分へつける薬のレパートリーが尽きるし、遥か高い空か真っ暗闇の地面ばかり見て首はもげる。そうして自身への処方箋をせっせと書いていたら、周りで苦しんでいたり私が何かできるその時を延々と逃す。

 

ここには何が残るのだろうか。このブログというカップには何がある。